大東亜戦争末期の沖縄戦で、祖国を守るために特攻隊に志願した、沖縄出身の方にお話を聞きました。以下はそのインタビュー内容です。

沖縄県民としてもっている戦争への気持ち

沖縄を守りたい、日本を守りたいという気持ち

(先の戦争のとき、私は)満州に行っておりました。敗色がはっきりしていましたから、「沖縄が危ない」ということで、航空隊に志願したんですよ。沖縄を守りたい、日本を守りたいという気持ちがありましたね。もう沖縄のためだったら死んでもいいと思っていました。(航空隊では、おそらくみんなが同じ気持ちだったと思います)入隊してからは、もうみんな特攻隊志願で。私たちの場合、本体は鳥取県にあったんですよ。特攻隊の場合はそこから宮崎県まで行って、宮崎から沖縄に飛んでいたんです。そのときは当然、もう生きて帰るなんて思ってなかったわけです。

米軍の沖縄上陸を聞いていてもたってもいられず

私が鳥取の航空隊にいるときに、米軍の沖縄上陸がありましてね。もう沖縄にいる親兄弟はみんな死んでしまっただろうと思いまして、もう私はいてもたってもいられなくて、何とか仇討ちをさせてくれということで隊長にお願いしたいんですよ。隊長は「待て待て」と。「そんな簡単に仇討ちができるもんじゃない。時が来るまで待ちなさい」と待たされて、やっと下関のちょっと手前まで来たときに、戦争が終わってしまったんです。そのときはもう、わんわん泣きました。

当時の県民はどのような思いで沖縄戦を戦っていたのか

(沖縄戦で亡くなった方は、確かに戦争の犠牲者ではありますが、犠牲者であると同時に英霊であり、英雄であると思います)。南部の人の話を聞いても、武器はないけれどもカマとかクワとかコテでそういうのを持ってやったそうですよ。鉄砲に向かってやったけど、だいぶやられたそうです。鉄砲がなくても弾がなくても、持てるものを持って戦おうという気持ちだったし、それでだいぶ犠牲者が出たところもあります。

戦後の歴史認識を一刀両断

沖縄が犠牲にされたという考え方は戦後の解釈

(内地を守るために沖縄は犠牲にされたという考え方は)戦後の話でしょう。戦争中にそんなことを考える人はいませんよ。戦後の連中がそういうふうに解釈しているだけの話であって、戦争中はそんなことないです。無我夢中ですよ。どんなことがあっても戦うんだという気持ちしかないよ。(われわれは)自分の国を守るという気持ちでいたのですよ。(日本軍にも)「守れるだけ守ろう」という気持ちは、十分にあったと思いますよ。そうじゃなかったら、こっちまで兵隊を置くわけないですよ。軍隊を置いたということ自体が、沖縄を大事だと考えていたということです。

一部の悪い人を見て全員が悪いと決めるのは間違い

(戦争から70年が経ち、日本軍が悪いことばかりしたように、テレビも新聞もいっていますが)私は、それは信じませんね。一緒に戦ったんだから、戦争は。だから私は決して、みんながみんなそんな気持ちではないと思う。まあ、悪い人もいるよ。どこの人間でも、いい人も悪い人もいる。一部の悪い人を見て、みんなが悪いと言ったんじゃ、話にならないでしょう。だから私は、決してそんなもんじゃないと思っています。あとで帰ってきて話を聞いても、うちの周辺には北海道の兵隊さんとかが、戦争が始まる前は家族みたいにして、こっちが昼飯食べる時に、横に入ってきて一緒に芋を食べてたそうです。家族みたいにしていたと聞いています。

みんなが沖縄を守ってくれたと思っている

当時はやはりアメリカとの力の差があるから、敗戦はやむを得なかったと思いますね。(沖縄では、日本軍は沖縄を見捨てたんだということを言う人もいますが)私は、そういうことは言えません。もうみんなが守ってくれたと思っています。だから住民には生き残っている人が多いわけです。(戦艦大和が出撃し、特攻隊の飛行機もたくさん来ました。日本軍は全力で沖縄を守ろうとしたと思っています)。