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さて、サウジアラビアとイランの国交断絶の背景にあるものとして、
前回はスンニ派、シーア派の「宗派対立」という観点から考えていきましたが、
今回は「民族対立」の観点から見ていきたいと思います。

アラブ人とペルシャ人ってなに?

サウジアラビアとイランの間にある違いは「宗派」だけではありません。
「民族」そのものが異なるのです。

サウジアラビアが「アラブ人」の国家であるのに対して、
イランは「ペルシャ人」の国家です。

アラブ人はサウジアラビアのあるアラビア半島だけでなく、
北アフリカから西アジアにかけて広くに住んでいます。

一般的には浅黒い肌をイメージしますが、
シリアやレバノンなどでは欧米人のように肌の白いアラブ人もいます。

一方で、ペルシャ人は主にイランに住んでいる人々のことで、
その多くが肌が白く、彫が深い美男美女が多いとされています。

言語も異なり、アラブ人は「アラビア語」を、
ペルシャ人(イラン人)はペルシャ語を話します。

宗派においては、ペルシャ人(イラン人)の大多数がシーア派なのに対して、
アラブ人はスンニ派が大多数を占めながらも、多様な宗派に属しています。

イラク、シリア、レバノンなどにはシーア派アラブ人も多く、
またキリスト教徒のアラブ人も少なからずおります。

このように、サウジアラビアとイランとの対立は
アラブ人とペルシャ人との民族対立という側面からも見ることができるのです。

長らく世界帝国として君臨したペルシャ

歴史的に見ると、この地域の覇権を長らく握っていたのはペルシャ人の方でした。

今から約2600年前(BC.550年)にアケメネス朝がキュロス大王によって興されて以来、
ペルシャ人国家は世界帝国として君臨してきました。

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ギリシャのアレキサンダー大王による東征等によってペルシャ人国家は一時断絶します。
しかし、征服者であるアレキサンダー大王は洗練されたペルシャ文化を愛し、
その同化政策によって生まれたヘレニズム文化の中で、ペルシャ文化は脈々と生きつづけます。

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その後、226年にサーサーン朝ペルシャが誕生。
当時の大国家であったローマ帝国と覇権を争いながら、
大版図を築き、ペルシャ帝国は復活を遂げることになるのです。

イスラム教勃興とペルシャ人のイスラム化

しかし、7世紀、イスラム教の勃興がペルシャ人を取り巻く環境を大きく変えていきます。

2代目正統カリフ・ウマルのもと、イスラム勢力が軍事的に中東全域を席巻し、
サーサーン朝ペルシャはあえなく滅亡してしまうのです。

このイスラム化の後、しばらくの間、ペルシャ人は歴史の舞台から姿を消すことになりますが、
750年にバグダードを中心としたアッバース朝が興ると、ペルシャ人の影響力が再び増していきます。

アッバース朝の最盛期は「イスラムの黄金時代」といわれます。
その「黄金時代」を支えたのが、
ペルシャ人が長年培ってきた行政制度などの統治手法や優雅で優美なペルシャ文化でした。

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1000年以上も続いてきたペルシャ文化が、
砂漠の民であったアラブ人のイスラム文化を高度に洗練させたのです。

現在でも、イランの人々の本音としては、
「アラブ人と比べられたくない、我々の方が高尚な民族だ」という民族に対する誇りを
イラン人と接していると感じることがあります。

今回のイランとサウジアラビアの対立の奥には、
歴史上、何度も対立してきた「ペルシャ人対アラブ人」の民族対立があるのです。

そうした強い民族意識を背景に、
ペルシャ人にシーア派という異端視される少数派の宗派を選ばせたのではないでしょうか。
(16世紀にペルシャ系王朝がシーア派を採用して以来、シーア派が主流となっている)

偉大なペルシャ帝国復活を狙うイラン

現代のイラン・イスラム共和国は、
① 1979年のイラン革命以降、「シーア派勢力の拡大」といった宗教的イデオロギーが強いことと、
②「ペルシャ帝国の復権」といった民族的な野望も色濃く残っていることが特徴だと言えます。

その象徴となっているのが、イスラム国の台頭で荒廃状態となっている
イラクの首都、バグダードです。

以前、自身のブログにも書きましたが、昨年3月、イランのロウハニ大統領のアドバイザーである、
元イラン情報省のアリー・ユーネスィー氏が興味深い声明を出しています。



「もし、イランが今日再び帝国になったとしたら、現在のバグダードが首都になる。
バグダードは、今も昔も我々の文明、文化、アイデンティティーの中心である・・・
イランとイラクの地理、文化は不可分のものである・・・
中東地域はすべてイランであり、そこに住むすべての人々はイランの一部である。
我々は、地域におけるイラン統一の達成を望んでいる。」


一国の元宰相が中東全域を支配したかつての帝国時代の版図の復活を口にし、
しかも、隣りの国の首都を、自分たちのものとすることを想定するのは、
それが仮定だとしても、穏やかではない話です。

現在の中国がそうであるように、どこまで実現するかは別として、
ペルシャ帝国を復活させ、中東全域を支配したい、という野心はイランの中にあるのでしょう。

こうした野心を持つイランと「アラブ世界の盟主」を自認するサウジアラビアが衝突するのは、
時間の問題だったのかもしれません。

「宗派対立の激化」を隠れ蓑にアラブ世界で影響力を強めるイラン

宗派の観点から見れば、国民の6割がシーア派のイラクと、
シーア派の国イランは協調関係を結ぶことができそうです。
一方で、民族の観点から見ると、アラブ人とペルシャ人(イラン人)
という民族の壁を超えることができず、
イラクのアラブ系シーア派とイランのペルシャ系シーア派は
長らくライバル関係にあり、一枚岩になることは本質的に難しかったといえます。

しかし、いくら民族的には対立関係にあるとはいえ、
スンニ派の「イスラム国」が勢力を伸ばす現在のイラク、
シリア両国のシーア派(アラウィー派)は異民族であるイランに頼るしかありません。
また、この機に乗じて、イランはイラク、シリア両国において
自分たちの影響力を着実に強めています。

つまり、イランが「宗派対立の激化」を隠れ蓑にアラブ世界に影響力を強めていることに対して、
「アラブ世界の盟主」サウジアラビアは危機感を抱きつつあります。
それが今回の対立につながった、という見方もあります。

いずれにしても、現在のイランとサウジアラビアの対立の奥には、
「宗派対立」だけでなく、「民族対立」があるということです。
次回は主にサウジアラビアの視点から見た国際政治における対立要因について
述べていきたいと思います。

こちらもお読みください

サウジアラビア、イラン国交断絶の背景にあるものは? ①「イスラム教 宗派の違い」 

イスラム教の宗派対立を解説!よくわかる中東問題(3)

イスラム国(IS)とは何か?よくわかる中東問題(1)