鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館。この地から全特攻戦死者の半数近い439名の特攻隊員が出撃していきました。ここで毎年行われている慰霊祭の発起人であり、この会館の一角に立つ特攻勇士の像のモデルになった元特攻隊員の方にお話をうかがいました。

特攻(特別攻撃隊)とは

特攻隊員は部隊長が志願者の中から選ぶ

自分が(特攻に)志願するというのは前もっての意思表示。そして部隊長が志願者の中から決めます。たいてい、優秀な人から選ばれることが多いです。

高度な操縦技能を要する特攻の訓練

高度3,000メートルから急降下をし、スピードがつくため途中で一旦抜け、また反転して、アメリカの艦船に突っ込む訓練。海上すれすれで進み、攻撃して突っ込む訓練。そうしたいろいろな訓練をしました。

特攻隊員として実際に体験したこと

大空に憧れ、大東亜戦争が始まった翌年に、東京陸軍航空学校という学校に入校しました。中国の太原(たいげん)という所の部隊に配属になり、そこで訓練も始めました。そして私の部隊から12名第一次必殺隊として特攻隊員の編成があったのです。

特攻隊の命令が下ったときの様子

7月25日に、特攻隊の命令をいよいよ部隊長が下しました。全員を整列させ、「ただ今から振武第四六七飛行隊の隊員を命ずる」といって、全部で6名、それが一つの特攻隊の編成になりました。
別れの盃に部隊長が注いでくれ、全員で乾杯しました。部隊長は「武運を祈る。乾杯」「君たちは今から知覧で250キロの爆弾を積んで、そして、沖縄の敵艦船に突入を命ず」と言いました。

特攻隊員入りが決まった時のご自身の心境

命令を受けた時、頭が真っ白で全然考えられなかったです。ただ、自分の父と母、兄弟、親戚とか友達とかそういう方々が、走馬灯(そうまとう)のように浮かんでくる――。結局命令ですから、生きるとかそういうことは考えません。我々は沖縄に行って死ぬということしか考えていませんでした。

特攻隊員の仲間たちとの思い出

毎晩の夕食だけが楽しみでした。特攻隊の6人で夕食を取って、外に出て、自分の故郷を思いながら、歌でも歌おうかなといって、「故郷(ふるさと)」「赤とんぼ」「夕焼け小焼け」といった童謡を歌って、自分たちの心をまぎらわせていました。

終戦を迎えたとき

沖縄に向けての特攻出撃後、途中のピョンヤンで終戦を迎えました。

終戦時の様子

おんぼろの飛行機をどうにかこうにかしながら飛びます。途中で油が漏れるなどのトラブルがいろいろと生じ、途中の飛行場に着いてそこの整備員に直してもらいました。そして8月15日、今のピョンヤンで12時に陛下の放送があったのです。ただ、陛下の放送が聞けず、そのまま飛行機にガソリンを入れてもらって京城(ソウル)まで飛びました。

胸に残る、先に出撃した隊長の言葉

「俺は一足先に征くよ。今度会うときは靖国で」と、先に特攻出撃した今は亡き隊長が言った言葉が胸の奥に残ります。また終戦後、第一次で特攻に征った自分の同期生とか先輩の夢を何度もみました。

崇高な精神を永久に慰めるために

終戦から10年後の1955年、知覧特攻基地戦没者慰霊祭が毎年行われることとなったのです。特攻に征った尊い崇高な精神を永久に慰めるために慰霊祭を始めてくれと、当時の町長に申し入れました。

元特攻隊員、最後の願い ~今の若者に~

特攻で行った18、19才の少年たちや先輩たちが青春をなげち、自分の楽しい時代をなげうち、日本のために、祖国のために殉じていった「壮烈崇高(そうれつすうこう)な精神」を今からの若い人にも知ってほしい。これからの若い人たちに本当の日本人として、素晴らしい日本を築いていってもらいたい。