パラオ諸島の南端にあるペリリュー島。かつて大東亜戦争の激戦地だったこの島を、戦後70年の今年4月8日、天皇皇后両陛下が慰霊のため訪問されます。この島を幸福実現党の釈量子党首が訪れ、「ペリリューの戦い」の意義に迫りました。釈党首は「1万1千人の中で、わずか34名しか生き残ることができなかったという激しい戦いを、彼らがなぜ戦ったのか。実際にこの目で見て知りたかったのです。彼らの『祖国への愛』を感じてみたかった」と話します。

70日あまりにわたって日米の激戦が繰り広げられたペリリュー島

ペリリュー島では、1944年9月から70日あまりにわたって、これまで歴史上多くは語られてこなかった日米の激戦が繰り広げられました。島には、今なお激しい戦闘を物語るかのように、戦車や砲台などが当時のまま残されています。

ペリリュー島は米軍にとって日本本土攻略の要だった

日本本土上陸を目指して侵攻を続けていたアメリカは、絶対国防圏内のサイパン、グアム、ニューギニアを次々と攻略。ペリリュー島には当時東洋一と言われる飛行場があり、米軍にとっては日本本土攻略の要でした。当初、米軍は2~3日で制圧する作戦でしたが、日本軍の激しい抵抗を前に多大な犠牲を強いられることになります。戦後、太平洋艦隊司令長官だったニミッツ元帥は、『太平洋海戦史』の中でペリリュー島の戦いについて、「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち勝つには、米国の歴史におけるほかのどんな上陸作戦にもみられなかった、最高の戦闘損害比率40%を甘受しなければならなかった」と述べています。

日本軍は地下や洞窟に陣地を造り徹底抗戦を行った

中川州男(なかがわ・くにお)大佐率いる日本軍守備隊は、それまでのバンザイ突撃による玉砕戦から転換。固い岩盤を掘り進み、地下や洞窟に陣地を造る徹底抗戦を行いました。岩山の洞窟からの、昼夜を問わず続く日本軍からの攻撃。米軍は洞窟を火炎放射器で焼き払い、皆殺しにする作戦に出ました。洞窟の壁が黒くすすけているのは、洞窟もろとも焼き払ったためです。また、日本軍の司令部跡には、数々のの砲弾の跡や、砲撃で崩れ落ちたとおぼしき痕跡が残っています。

日本軍は4倍の兵力を相手に70日あまり戦い抜いた

やがて食糧も弾薬も尽きた日本軍は、洞窟の中で軍旗と機密書類を焼却し、玉砕を知らせる電報「サクラサクラ」を打電。中川大佐は自決しました。日本の委任統治領だったパラオのペリリュー島に侵攻してきた米軍はおよそ4万人。これに対して、中川州男大佐率いる日本軍守備隊はおよそ1万人。4倍の兵力に立ち向かった日本軍の生存者は、わずか34人でした。ペリリュー島の一角に、日本軍の兵士たちが祀られている慰霊碑があります。そして守備隊の生存者34名の塔が立っているのです。

日本軍が数多く無駄死にしたと伝えられることについて

NHKはこの戦いについて「狂気の戦場」と題し、彼ら日本軍の死が無駄死にであったかのような伝え方をしました。しかし実際のところ、この激しい戦いを生き抜いた日本軍兵士たちは、当時どんな思いで戦っていたのでしょうか。

「何とかして日本がつぶれないように戦った」

終戦後の1947年4月まで洞窟に潜み戦い続けた生存者の方が、自身の気持ちを語りました。
「(アメリカの戦場写真家の)あの人の写真を見て、日本人がこれほどまでによく戦ったなあということを、私はもう感心したわけですね。『これだけやっぱり日本人は戦っているんだな』と思って、あれはもうちょっと初めて見て感心しました。みんな国家のため、陛下のため、結局、何とかして日本がつぶれないように、一生懸命に戦った。それがそういうふうなこと(無駄死にと言われること)は嫌ですね」

ペリリューの戦いが、日本への本土上陸を阻止した

日本軍はこのペリリューで、それまでのバンザイ突撃による玉砕戦法から、持久戦へと方針を変えました。この戦いで、日本軍の死者と同じぐらいの死傷者が米軍から出たことや、その後の経緯も踏まえ、結果的に米軍による日本本土上陸は阻止されたわけです。その意味では、やはり非常に意義深い戦いであったと言えるでしょう。彼らの死は無駄ではありません。この日本のために戦われた、まさに英雄です。

釈党首は訪れた日本軍の司令部跡で「どうしてそこまで強くあったのかというと、やっぱり愛のためじゃないと、そういうのはできないと思うんですけどね」「犬死にだとかおっしゃるのを信じておられる方は、一度こちらに来られたほうがよろしいんじゃないかなと思いますね。ここを見て犬死にって言えますか。ここに来て、無駄死にだって言えるのかどうかですよね」と口にしていました。

パラオの人々が語った当時の様子とこれからの展望

もともとドイツの植民地だったパラオは、1919年に国際連盟からの委託により、日本の委任統治領となりました。日本統治が始まると、それまでほとんどなかった学校や病院などのインフラが整備され、近代都市に生まれ変わりました。そのため、今でも親日の人が多くいます。

立派な日本人になろうとがんばっていた

当時パラオに暮らしていた92歳の男性は次のように語りました。
「日本軍と一緒に戦いたいと思ったことはあります。やはり日本の教育を受けましたので、『私たちは立派な日本人になります』と毎朝繰り返して言っていました。強制とは言わないですよ。強制的にはやらなかったですよ」
「(日本が戦争に負けた時は)悲しく思いましたね。私たちが立派な日本人になったと思っていたから、だから日本が勝てば、ニューギニアだとかシンガポールだとかの応援を何かすると思っていたから、残念に思いましたよ」

日本の兵隊はとてもやさしかった

また、おなじく当時ペリリュー島に暮らしていた92歳の女性は次のように語ります。
「戦争が激しくなったから、(ペリリュー島から)本島のほうへ行きました。ペリリューにいたけどね、(日本の)兵隊さんが『ここにいたら危ないから引っ越しなさい』と言いました。とてもやさしかったんです。そして(島を離れるとき)『さよなら、さらば ペリリュー島、また来るまでは』そういう歌を歌ってました。日本人はね」

大統領として日本に永遠に感謝している

終戦後、パラオは米国の統治時代を経て1994年に独立。当時大統領だった日系人のクニオ・ナカムラ氏は次のように語りました。
「私は大統領として、日本に永遠に感謝しています。すでに戦争から70年がたちました。天皇陛下の訪問によって、日本兵たちの魂が弔われることを願います。第二次世界大戦の章を終わらせ、新しい章を始めなければなりません。平和のために、発展のために、絆を深めるために。それは日本とアメリカだけではありません。全世界がそうなのです」

祖国の人たちが何千何万と死ぬのを食い止めるという気持ち

自らが盾となり、アメリカの侵攻と戦った守備隊長・中川州男大佐の思いが、2015年2月24日、霊言によって明らかにされました。

大川隆法著 霊言『パラオ諸島ペリリュー島守備隊長 中川州男大佐の霊言―隠された“日米最強決戦”の真実―』より

まあ、「サクラ、サクラ、サクラ」の電文も、最後は打ったけれども、散るのは分かっておりながら、その桜の花を、一日で散らすか、三日で散らすか、一週間で散らすか、一カ月で散らすか。二カ月か、三カ月か。その桜を長くもたすことができるか。

ただ、「日本は、このペリリュー島を略奪・占領していたわけではない」ということは知らなければならない。

まあ、われわれにとっては、「防衛」であるわけです。侵略しているのは向こうであって、こちらは侵略しているわけじゃないので、侵略軍じゃありません。

うーん。やっぱり、人はねえ、憎しみでもっては戦えないよ。やっぱり、愛のために戦うのであってねえ、憎しみでアメリカ人を殺せないよ。

だから、「祖国への愛」、それから、「家族への愛」、「同胞を守る」ということのために戦うんだな(小さくうなずきながら、かみしめるように口を結び、涙ぐむ)。

やっぱり、「われわれが一日持ち堪こたえることが、祖国への攻撃を一日遅らせることになるんだ」
「我々が死ぬことで代わりに、祖国の人たちが何千何万と死ぬのを食い止めているんだ」という気持ちはあったね。

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今の日本があるのは、当時戦ってくれた人がいたから

今回、ペリリュー島を訪問した釈党首は「戦車や兵器があちこちに捨て置かれているんです。いろいろな物を見て、最後に日本の戦車を見たんですが、明らかに米軍の戦車に比べて小さいんです。よくぞこれで、また灼熱の南国で2カ月以上も戦われたなというので、もう胸がつぶれるような思いがしました」と感想を述べました。そして締めくくりに、「ペリリュー島に一泊して、朝起きた時に、今の自分があるのは誰のおかげなのかと、感謝の念いがこみ上げてくるものがありました。今の日本の繁栄、今の私たちの平和な暮らし、これは、あの戦いを必死に戦ってくださった方々がいたからこそだと。この愛の思いを知ることによって、感謝から報恩へ、戦後70年の節目にまた新しい国をつくっていこうという気持ちは、この感謝から始まるのではないかと思います。そういう意味で、ペリリュー島で先人たちの愛を発見したことは、私にとっても非常に大きな経験になりました」と自身の思いを語りました。

戦後70年、もう歴史の嘘はやめなければなりません。先の戦争は侵略ではなく、日本の自衛のため、アジアの植民地解放のための戦いでした。そこで戦った方々は、戦犯でも無駄死にでもなく、国を護るために戦った英雄であることを忘れてはなりません。