日本側に民間人を含む18万人を越える死者を出した沖縄戦。この戦いはペリリュー島、硫黄島の戦いと並ぶ、大東亜戦争末期の激戦です。ザ・ファクト取材班は、幸福実現党の釈量子党首とともに沖縄戦の意義に迫りました。

大東亜戦争末期の激戦「沖縄戦」とは

日本の絶対国防圏を突破した米軍はやがて沖縄に上陸

大東亜戦争末期、米軍は日本の絶対国防圏を突破し、サイパン、グアム、フィリピン、硫黄島へ次々に侵攻。戦闘継続に欠かせない石油や武器などの物資不足に陥っていた日本は、南方の資源地帯との交通を遮断され、致命的な状況に追い込まれていました。そんななか、昭和20年3月、米軍は日本本土侵攻を目指し、ついに沖縄へ上陸。残波岬は、辺り一面米軍の艦船でいっぱいにになるほどだったといいます。

米軍は日本軍だけを狙わずに沖縄住民を巻き込んだ

沖縄戦でもっとも悲惨だったのは、多くの民間人を巻き込んだことにあります。ガマと呼ばれる洞窟へ避難した住民に、米軍は容赦なく火炎放射を浴びせたのです。沖縄戦での避難生活がどれほど過酷だったのか、従軍看護婦に自ら志願し、日本軍と行動を共にした方に話を聞きました。
「(壕の中の様子は)自然壕だから、土ですよね。中は土の上ですよね。そこに敷物をしたり、むしろを敷いて、全部ずらっと寝ていました。兵隊も、それから看護婦とか女性も」

また当時7歳だった別の女性は、米軍上陸ののち、家族と共に山の中を逃げ回っていた当時をこう語ります。
「山の中に母親と姉3名と私と、ずっと山の上に隠れていたんです。途中から、ザック、ザック、ザックと木の葉の音が聞こえるわけですよ。米兵に捕まったら女性は引っ張られていくという噂が出ていたので、うちの母は心配して、姉たちの顔に墨を塗って、姉2人を後ろに座らせて。それが一番怖かったです」

沖縄を見捨てることなく全力を注いだ日本軍

この沖縄戦について、地元メディアでは「日本軍は沖縄を見捨てた」という報道が続けられています。しかし、沖縄平和祈念公園に並ぶ沖縄戦で亡くなった方々の慰霊碑には、沖縄を死守するために命を落としたおよそ6万5千人もの県外の方々の名前が刻まれているのです。

硫黄島を「従」、沖縄を「主」とした作戦

拓殖大学客員教授で、シンクタンク「沖縄・尖閣を守る実行委員会」代表の恵隆之介氏は、「決して捨て石だったのではなくて、むしろ(県外の人々の)沖縄を守ろうという気持ちと、沖縄県民の「祖国の防波堤になろう」という気持ちが一つにまとまって、あれだけの戦いができたと思います」と言います。

また、元海上自衛官でもあった恵氏は、沖縄戦直前の大本営海軍部の資料を調べているときに、硫黄島と沖縄と同時に攻められた場合には硫黄島作戦を「従」として沖縄作戦を「主」として、残存艦艇の全部を沖縄に投入するという内容を見つけたと言います。実際、海軍は沖縄を死守するために、戦艦大和率いる連合艦隊による海上特攻を行っています。この時、連合艦隊は米軍の猛攻撃を受け、沈没。この海戦でおよそ3,700名の軍人たちが命を捧げたのです。

沖縄を死守するために日本各地から特攻隊が出撃

さらに九州や台湾など、各地から沖縄を死守するために特攻隊が出撃。戦況の悪化で飛行機が不足する中、3月から沖縄戦が終結する6月までの間に、陸海軍あわせて2,500機を越える特攻出撃が行われました。

沖縄出身で特攻隊に志願した方は、次のように証言しています。
「(内地を守るために沖縄は犠牲にされたという考え方について)それは戦後になって出てきた話でしょう。戦争中にそんなことを考える人はいませんよ。戦後の連中がそういうふうに解釈しているだけです。自分の国を守るという気持ちですよ。『もう沖縄のためだったら死んでもいい』という気持ちで、『一日でも早く沖縄にいる米軍と戦いたい』と、それだけしか考えていなかった。そういう中で全力をあげて日本軍は沖縄を守ろうとしたし、沖縄の一般住民も当然、一緒になって戦ったと思うんですよ」

沖縄県民も日本人として命を懸けていた

ひめゆり学徒隊、従軍看護婦の女性たちによる証言

ひめゆり学徒隊に志願した方も、当時、沖縄の人たちが日本を守るために戦ったと証言しています。
「(本土のほうを守るために沖縄が犠牲にされたという見方が、新聞やテレビや政治家にもありますが)これは偏った人の考えじゃないですか。あの頃は一緒に日本人として戦ったんだから、そんなことはない。みんな真剣に国を守ろうと思っていた。これは本当に考え違いだと思います。『国のために死ぬんだ』と、こういうことしか、心の中にはなかったですね。だから友達とも『靖国神社で会おうね』と、こういう言葉があったんですよ。やっぱり女子も戦死したら靖国神社に行くということになりますから、『靖国神社で会おう』と、こういう話し合いはありましたよ」

元従軍看護婦の方も「私は(亡くなられた方は)無駄死にじゃなかったと思います。みんな、『お国のため、お国のため』と言ってやったんですから。看護婦養成所に入った者も、みんなそうだと思います」と語っていました。

海軍司令官の太田少将の電文資料より

海軍司令官の太田少将は死の直前、海軍次官に電文を送信し、沖縄県民へ特別の配慮を要請しています。この伝聞の中からも沖縄の方々がともに戦っていた様子がうかがえます。
「若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。(中略)沖縄県民は、このように戦いました。県民に対して、後世特別のご配慮をして下さいますように」(「大田司令官の電文」より)

沖縄戦の司令官・牛島満中将の思い

およそ3カ月におよぶ死闘の末、食料も弾薬も尽きた日本軍守備隊。牛島中将は摩文仁の洞窟で自決し、大本営の発表により、沖縄戦は終結しました。従軍看護婦として牛島中将の自決に立ち会った方に、牛島中将の人柄について聞くことができました。

「(住民の方に対して)優しかった。とてもとても優しかったよ。『戦争はもう終わりだからね。これからはどこかに逃げておきなさいよ』と言われました」
「悪い人じゃないよ。人を助けるために自分は命なくなったさ。あの方は、人を助けるために、あの人は自分で自害しているさ。苦しんで『私が犠牲にならないといけない』と言って」

霊言『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言―戦後七十年 壮絶なる戦いの真実―』より

自らの命と引き替えに、最後まで沖縄県民のことを思い続けた牛島満陸軍中将。2015年4月10日、幸福の科学大川隆法総裁が霊言によって、牛島中将の沖縄に対する思いを明らかにしました。

「我々軍人は、もちろん全員玉砕するつもりでありましたけれども、全員最後の一兵まで戦って死ぬつもりでありましたけれども、沖縄の民間の人々、女性や子供たちを護り切れなかったことを、軍人の最高司令官として誠に誠に申し訳なく、わが非力により戦後70年にわたって、いまだに沖縄の人々が日本の国に対して不信感を抱き、その戦いに対して「無謀な 無駄な戦いであった」と言い続けておられるのであるならば、まこと、私ただ一人の責任と言わざるを得ません」

「沖縄を日本の一部として護り続けようと思って、命を捧げた軍人が全国から沖縄に来たし、特攻でも一番多くの死者を出しているのではないかと思います。自らの命を捧げて敵艦に突っ込んでいく者の気持ちをわかってくださったら、我々が沖縄を蔑視したり軽視したり、見捨てようとしたわけではないということは、どうかわかっていただきたいと思います」
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私たちは今まで、マスコミや学校教育を通じて、「沖縄の方々は戦争に無理矢理かり出された被害者なのだ」という歴史観を学んでいました。今、「日本は一つ」という考え方ではなく、「虐げられる沖縄」「虐げる日本政府」という図式を利用して、日本弱体化を図る人たちがいます。例えば左翼勢力、あるいは尖閣を狙っている中国です。今こそ日本軍は悪であるという誤った歴史観を正す、それが戦後70周年の今年、私たち日本人に求められているのではないでしょうか。