昭和20年、民間人を含め、日本側に18万を超える死者を出した沖縄戦。沖縄戦開戦をきっかけに従軍看護婦に自ら志願し、25人中10人が戦死したという「石部隊」の従軍看護婦の方にお話を聞きました。以下はそのインタビュー内容です。
那覇市内にあった看護養成所で看護婦を目指していた
看護婦を志した理由について
私の父は42歳で戦争で死にました。1年に(身内が)3人もなくなったので、看護してみようという気持ちになりました。(看護婦の)養成所には45名いましたけれども、野戦病院に行くには家族の許可が必要でした。45名中25名が行きました(ですから、強引に看護婦に徴集されたわけではなかったんです)。
沖縄戦当時の看護の仕事の様子
最初は宿舎を借りてそこで授業を受けたり、患者さんの傷の消毒をしたり、包帯を巻いたりしていました。そしてだんだん空襲が激しくなって、壕に入ったんです。壕に入っても、やっぱり負傷兵の看護をしたりしていました。ちょっと傷の手当てが遅れたらウジがいっぱい出て、それをピンセットで処理をしたり、消毒したりといったこともたまにありました。
友達は手術場にいて、そこでは足の手術が多かったみたいです。同じ養成所の友達のなかにはそういうことをたくさんやった友達もいました。切断した足とかを運んで埋めたとかですね。6月頃からは、もうあまり薬品もなくて治療ができませんでした。そして戦争が激しくなって、首里から南方方面へ移動することになって、それからあとはもう治療も何もできませんでしたね。
戦争当時の沖縄の様子について
壕の内外はどのような様子だったか
自然壕だから中は土の上ですよね。そこに敷物をしたり、むしろがあればむしろを敷いて、兵隊とか看護婦とか女性も皆ずらりと寝ていました。首里から南方に移動するときにはもうあたりは荒れていて、山の緑はなく、地面は艦砲の跡で大小さい穴だらけでした。それを越えて、やっと摩文仁に移動しました。
戦争末期では食べるものがなかった
食べる物は、後のほうはなかったですね。最後は摩文仁(まぶに)でしたから、海岸通りですよね。海辺には小さな貝などがあったので、それを砕いて洗ったりして、飢えをしのいでいました。
昼は壕に入って寝ていたり、夜になると食糧を探しに
摩文仁に着いた後は壕に入ったきりで、昼は壕に入って寝ていたり、夜になると食糧を探しに出たり、といった状態でした。私のいた養成所から25名戦争に行きましたが、摩文仁の最後の壕では3名だけになって友達もあまりいないし、「みんな何をしてるかな」と思っていました。考える力もなくなって、それぐらいしか思えなかったですよ。ただ生きているという感じがしていました。
日本兵に対して敬意を持っていた
(日本軍の人たちに対しては)思いというよりは自然体というか、日本を守るための兵隊さんですから、敬意を持っています。ずっと最後までその気持ちですよ。ひどいことをされたとか、怒鳴られたとかはまったくありませんでした。(壕の中に)ちゃんと、どこに何名と配置されて、ちゃんと食事も与えられたし、そんなにつらい思いはしていないです。
報道されていることと異なる実体験
慰安婦など壕の中にいなかった
(壕の中に慰安婦がいたという報道がありますが)そんなことは絶対ないですよ。慰安婦というのは、最近になって聞いただけです。絶対ないですね。もういつ死ぬかわからない状態ですから、慰安婦どころの話じゃないです。戦なんですから。
自決の強制はなく解散命令が出た
(手榴弾や青酸カリを渡されたという話もありますが)手榴弾は1個ずつもらいました。だけど、どこかで捨てました。場所は覚えていません。それから自決の強制はされていません。「生き延びなさい」と言われましたよ。強制した集団自決の強制なんてあり得なかったです。一人もそんなことで亡くなっていません。命令もなかった。とにかく「生き延びなさい」といって解散命令が出たのを覚えています。
沖縄は本土に見捨てられた嘆きは聞いていない
(沖縄の方は本土に見捨てられたという思いを持っている方が多いなんて)そんなことは聞いていません。思ったこともないです。(亡くなった人たちは)無駄死にじゃなかったと思います。みんな、お国のため、お国のためと言ってやったんですから。看護婦養成所に入ったのだって、みんなそうだったんだと思います。みんなあまり悲しんでいないと思います。