クォン・ヒョジン(権孝真)氏は知らずにスパイの逃亡に加担した罪で
「教化所」に7年間収容されていました。
その後、脱北し韓国に亡命したクォンさんは現在、「デイリーNK」で記者として勤める傍ら、
自身の「教化所」での体験を絵に描き、各地で講演を行っています。
クォンさんのインタビューは以前、
残虐非道!脱北者が暴露する、北朝鮮の刑務所での囚人虐待としてアップしていますが、
今回はインタビュー全文を公開します。

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クォンさんが刑務所に入った経緯

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質問者 クォンさんはいつ捕まり、何年間刑務所で過ごしたのですか。

クォン 私が逮捕されたのは2000年の4月です。
逮捕されてから予審(取り調べ)を少し長く受けました。
ほぼ1年、11か月受けて2001年2月に刑務所に入りました。

質問者 「教化所」と呼ばれますよね。

クォン はい。

質問者 これはどういうところなのですか。管理所(政治犯収容所)とは違いますよね。

クォン はい。昔は軽犯罪者たちを扱った刑務所なのですが、
最近は韓国への逃亡を企んだ者、不法越境、人身売買、
闇取引(密貿易)など中国絡みの犯罪者が急増したので、
それをすべて政治犯収容所に送ることはできません。
ですからその人たちを服役させる刑務所になっているのです。

質問者 どのような人たちがどのような割合で入っているのでしょうか。

クォン 昔は、ほぼ刑法犯でしたが、
苦難の行軍(1990年代後半の飢餓期)が始まって
国家が困難に陥ってから民心が変わりました。
その頃から次第に増えたのが韓国への逃亡、中国への人身売買、
不法越境、闇取引(密貿易)、
このような生活苦に起因する犯罪が急増して、
5割以上を占めるようになりました。

残る20~25%ほどは生活苦から国内で国家財産を盗む、
工場・企業所の機械を引き抜いて売ってしまうとか、
電線を切断するとか、牛を捕まえて食べてしまうといった、
国家財産を侵害する犯罪が増えました。

その他は個人の性向に応じて泥棒をしたり、
生活苦ゆえに強盗したりという犯罪が急増しました。

質問者 クォンさんはどのような罪で捕まったのですか。

クォン 私自身生活に苦しんで家族を養わなければならない。
そこで羅津(ラジン)という特殊地帯(自由貿易地帯)があるのですが、
そこで中国人と取引することで
食糧を購入できるようになりたいと考えました。
それで私は羅津に行き、カン・チュングクという中国人と出会いました。

その人と取引をする中で
「親戚を一人探してほしい、そうしたら助けてあげる」と依頼されました。
それはよいことだと思いましたので、
「その親戚はどこにいるんだ」と聞きましたら、
清津(チョンジン)にいると言います。
清津の人なので私を選んだのでしょう。(※クォンさんは清津出身)
それで私は清津に入り、キム・ソンチュンという
郵便局に勤務して引退した70歳近いご老人を探して羅津まで連れていき、
カン・チュングクという人に引き渡したのです。

ところがその人は韓国人とも接触していたので
保衛部の尾行が付き撮影されていたのです。
私が引き渡した人は韓国側が探していた、
朝鮮戦争時の韓国軍捕虜だったのです。
そのために私も逮捕されました。
その罪で刑務所に行きました。

教化所内での人権侵害・拷問の実態

質問者 クォンさんが描いた絵を見ながら教化所内の様子についてお話ししていただきます。

教化所の全景

クォン これは私が入った教化所の全景です。
ここには先生(看守)たちの兵器廠(武器庫)があり、
ここは事務室、ここが農場の畑、これが教化所内の建物です。
正門から入ると、これが教化所内の監房で、ここが給食設備のあるところ、
ここが木工場をはじめとする工場があります。
ここに川が流れていて、小さな渓谷があり、ここが所長の家です。
ここが政治部長の家、ここが保衛指導員の家という具合に住宅が連なっています。
これが教化所の全景です。


拷問に訴えてでも罪を認めさせられる

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クォン ご覧のとおり、教化所に入ると拷問もされますが、
されないようにするためには、さっさと自白しなければならないが、
進んで罪を自白する人は少ない。
入ると、いずれにしても予審員(取調官)は自分の成果を出さなければならないから、
何が何でも強制的な拷問に訴えてでも罪を認めさせる。
教化所も同じです。


看守の娯楽としての拷問

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クォン 入ってからも生活をちゃんとやれないと、色々な拷問があるのですが、
こういうのやこういう拷問があって、
この拷問の場合は、先生(看守)方が2時間交代の勤務の際に娯楽を兼ねて、
こういうことに快楽を覚えるのです。
ひとまず罪人になったら言われるとおりにやるしかないのです。
人間ではないような扱いを受けます。

この絵の様子は、
教化所内で作業をしていて、自分の課題を遂行できなかったときに、
木を曳いて運ぶ人には木を括り付けて、
レンガを作る人にはレンガを背中に背負わせる。
こうした拷問を受けます。


女性でも合計40㎏の桶を運ばされる

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クォン 女性の場合は、農作業で畑に水を撒くのですが、
この桶がとても重いのです。
片側で20kg以上です。
これを2つも担いで畑に水を撒くのですが、女性にはたいへんな負荷です。


教化所内では、生き物を何でも食べなければ生きられない

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クォン 教化所では飢えているので、
地べたに生えている草を抜いて食べたり、虫を食べたり。
とにかく生きているものは何でも口に入れようとします。ひもじいから。
働いていても隙間の時間があると食べ物のことを考えます。
こういう人は早く死ぬのです。
こうして栄養失調になって死ぬのです。


多い時で1日に4~5人が亡くなる

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クォン この絵は、教化所では1日平均で少ない時は2、3人、
多い時は4、5人ずつ死んでいきます。
死ぬと死体は死体室に保管します。
夏になると2、3日で腐敗して、ネズミがやってきて目玉を食べてしまいます。
死体をまとめて運び出すときには
形が崩れて見るも無残な姿になっています。


囚人が亡くなると、「不忘山」で焼かれる

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クォン 死体を集め、リヤカーに載せて、
「不忘山」という山に登っていくのですが、
登ったら木をやぐらに組んだ上に死体を載せて焼いてしまいます。
火を付けたら、焼き終わるまで見届けずに山を下りて、
翌日山に上がって見るのですが、
(焼けた死体を)掃いて捨ててしまいます。
誰も見られないように。


額に鉄柵の跡が残る辛い拷問

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クォン こういう拷問もあります。
これは、先生(看守)たちが監房に入ってきて、
気に入らない、言うことを聞かない人がいると
鉄柵に頭をつけて、(体を斜めにして)立たせる。

これは30分もやると体の力が抜けてしまいます。
額には鉄柵の痕が残ります。
辛い拷問の一つです。


普通の人でも負えない荷物を栄養失調の囚人が運ばされる

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クォン これはジャガイモの農作に動員された人たちですが、
普通の人でも負えないような荷物を
栄養失調の人でも背負わなければならない。
倒れても、殴られながらでも遂行しなければならないノルマがあります。

質問者 この籠は何キロくらいになりますか。

クォン 一人当たり一つずつあって、
キロ数はそれぞれの事情を斟酌せずに背負わせますから、
体が丈夫な人は平気ですが、具合の悪い人はたいへんです。

質問者 20キロ、30キロほどですか。

クォン そんなものではありません。
40キロは超えています。

質問者 ジャガイモが入っているのですね。

クォン そうです。ジャガイモですから、とても重いのです。


家族との再会よりも食べ物に心を奪われてしまう

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クォン これは面白い様子なのですが、
一般社会でもまともに食べられずひもじい思いをしているわけですが、
囚人の母親たちが苦労して食べ物を用意して面会に来ても、
囚人は母親に「会えてうれしい」などと挨拶するゆとりはありません。

風呂敷を広げると、まずその食べ物に目が行き、
食べたい一心で母親の声は耳に入ってこない。
その様子を見て母親たちは泣きます。
忘れられない場面です。
母親がいくら泣きながら話しかけても、その言葉が耳に入ってこない。
看守たちも母親たちが賄賂を差し出してこそ面会を早めにさせてあげるのです。


囚人は死んでからも人間扱いされない

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クォン これなどは、生きている人を埋めはしないのですが、
不忘山に木がないとか、先生(看守)たちが速く処理しなければならないとか命令した時に
夏におおぜい栄養失調で死ぬときには不忘山で燃やすだけではなくて、
その前に少し低い山があるのですが、
先にそこに行って穴を掘ってから降りてくる。
死んだ人たちを運んでいくのですが、リヤカーが足りない。
病人の房で死んだ人たちを積んで行くのだが、
その作業をする囚人たちは何も言えずに運んで穴に埋めて戻ってくるのだが、
昔にこういう事例がありました。

(死体を穴に)埋めて収容者たちが戻ってきたが、
「あいつはまだ死んでいなかった、息はしていた」と。
ところが運び出すことになったのだが、
「途中で死ぬだろうと思ったが、
(死なずにまだ息をしていたのに)そのまま埋めてしまった」という事例がありました。
今からでもその場所に行って掘り返したら、
人の骨がたくさん出てくるはずです。
埋めた人数だけでもたいへんな数ですから。

質問者 数百にはなりますか。

クォン なるでしょうね。
数年の間にたくさん埋めましたから。
穴に落とした死体に先生(看守)方が小便をひっかけることもありましたよ。
隣で囚人たちが見ているのですがね。
死んでからも人として扱われないわけです。

刑務所内で生き残るには?

質問者 教化所の過酷な環境の中で生き延びられる秘訣は何でしょうか。

クォン 考え方の違いです。
刑期が2年~3年なら、その2~3年をどう持ちこたえようかと思うのですが、
食べ物のことをしきりに考えるようになる。
そういう人たちは長く持たない。
ところが10年、15年の重刑の人たちは
「この中でどう10年生き延びたらよいのか」と思うと、
自分なりのあらゆる方法を考え出すのです。

力の弱い人の食べ物を奪い取ってでも、
先生(看守)方におもねってでも、
「あの人を密告して一食余分にせしめよう」というような弱肉強食、
「他人より一匙でも多く食べてやる」といった生きる意欲がとても強いのです。
それでこそ生き延びられるのです。
秘訣はそこにあります。

クォンさんの教化所での地位「指令工」とは?

質問者 クォンさんが教化所に入ったのは2001年2月ということですが、
出所はいつでしたか。

クォン 2007年2月に出ました。
2月5日に入所して、奇しくも2月5日に出所しました。
出てから1年間社会生活を送ってみて、それから脱北しました。

質問者 教化所内では「指令工」をなさいましたよね。
囚人の中では高い地位になりますか。

クォン そうですね。
囚人のポジションとしては上から2番目になります。

質問者 なぜそうした地位に付けたのですか。

クォン 先生(看守)方も、かつて党機関、法機関にいた者については
目をかけてくれるのです。
他の人とは意識状態が違うと見做してくれるし、
あとは裏で家からどれだけ賄賂を贈るかによっても違ってきます。

質問者 クォンさんの場合もご家族が賄賂を差し出してくれたのですか。

クォン はい。私の姉が教化所の所長に賄賂を渡したということでした。

教化所内で暴力をふるうことを強いられた辛い経験

質問者 クォンさんも教化所で生き延びるために
本意でないこともたくさんなさったでしょうね。

クォン はい。

質問者 弱肉強食の世界であるし、本意ならずともやらざるを得なかったこと、
可能な範囲でお話しいただけますか。

クォン ひとまずあの中に入ると、最大の目標は生きて出ることです。
あの中では互いに生き残るための競争をしているのですが、
生き残るためには先生(看守)方しか頼れるものはないのです。
先生方から与えられた任務を囚人たちに遂行させられないと
自分が生きられなくなる。
自分がやられてしまうのです。

それでも先生(看守)方の目を避けながら、
少しずつ調整して囚人たちの便宜を図りましたが、
それでも良心の呵責を覚えることが多くあります。
やられる側の人たちも理解はするのです。
自分もその立場ならそうするだろうと。

所長が木工場に入ってくると、
他の囚人たちは所長を見てはならないので、
壁に向かって立っている。
私は所長について歩くのですが、
所長が「この製品の出来は悪いな。
どうしてこんなことをさせているんだ」と言うと、
私はこのくらいの大きさの手斧を持っていて、
それでその製品を叩き壊す、そうすると所長が喜ぶのです。

私が叩き壊した後で、
その製品を担当した人に「出てこい」というと来ますね。
そうすると囚人は人間ではないので、
所長は相手にせずに私の方を見るのです。
すると私は仕方なく棒でもってそいつを叩きのめすのです、所長が見ている前で。
そうしたら所長は黙って先を行くのです。

私が叩きのめさないと、
所長が「あいつを独房に放り込め」と言うことになります。
私が責任を取らなければならないのでどうしようもありません。

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出所してから脱北を決意するに至った経緯

質問者 2007年2月に出所してから1年間社会で暮らしたということですが、
具体的にどう過ごしたのですか。

クォン  (稼ぎ手である)父親がいなかったので、
さらに厳しい暮らしに落ち込んでいました。
子供たちは2カ月も学校に通えなかった。
それを見て胸が痛みました。
こんな暮らしはしていられない。
それに私が教化所に7年間入っている間に、
世の中はどのように変わったのか、それを確認したくて、
友人たちの家を一回りしてみました。

友人たちの暮らしも苦しい様子で、
それに私が生きていこうにも入り込めるスキがありませんでした。
党からも除籍されていたので暮らしていくのが大変でした。
ところが韓国に逃れた脱北者の家族が
良い暮らしをしているのを見ました。
それで(韓国に)行こうと決心したのです。

質問者 脱北者が北に残る家族に送金できるのですか。

クォン はい、可能です。
間で中国人がブローカーをやるのですが、中国人の口座に金を送ると、
かれらは華僑なのですが、商売で毎日北朝鮮に出入りしますが、
手数料で30%取ってから相手の家に持っていくのです。

ちゃんと持っていかないと、その後からは仕事がなくなるので、
ちゃんと運んではくれます。
そういうルートを通じて家族が金を受け取ります。

質問者 若い三代目・金正恩に対する人々の見方は?

クォン 民心は金日成にも金正日にも期待したが、
2人とも国民のごく素朴な願いも実現できなかった。
それが民心として共有されているので、
三代目(金正恩)になって宣伝しても信じはしません。
あの一族に対する信頼は失われたが、暴力手段はさらに緻密になっている。
だから国民は表現するのが困難です。
だから揶揄する形で噴出します。
幹部は二重性格になります。
表では命を永らえるために阿り、裏では不満を漏らします。

質問者 暴力手段が緻密になったということだが、具体的には?

クォン 金正日時代にはそれでも行き来する自由が、
賄賂を渡せばそれでもあったのに、
今では内陸から国境沿線に出ようにも
検問所をたくさん作って出にくいし、
脱北者家族を滅ぼすだの、脱北者家族への統制が厳しくなり、
電波探知機を据えたり、鉄条網を設置したりと統制を強化しています。
今では豆満江沿いに監視カメラも設置していると言いますから。

故郷・北朝鮮への思い

質問者 清津が故郷ですが、北朝鮮に帰りたいですか?

クォン 今の状態の北朝鮮には帰りたくありません。
統一した後に、北朝鮮の国民が資本主義社会で生きていけるように
目覚めさせて意識を変える役割をしたい。
故郷に行って、かつての苦しみも語り、
自由に暮らせる方向に進むよう助けたい。
統一されて自由に暮らせるようになったら、(故郷に)行きたいです。

質問者 韓国と比べて北朝鮮社会なりの美点を感じるところはありますか。

クォン 幼いころから共に過ごした家族、
友人への郷愁、哀愁はあります。
良くも悪くも私の故郷です。
苦しい時を共に過ごすと互いに助けようという意識が出てきます。
苦しい環境を共に克服していこうというそれがあるのです。
人情があります。
互いに分かち合って食べ、分かち合って使おうという人情があるのです。
北朝鮮の集団的に人情味、これは良いものだと思います。
北朝鮮の人たちもお頭の足りない人たちではないのです。
アイディアもあるし、生活難を経て生きる意欲も強くなった、
統一されればハートも良い、リーダーシップもある人たちが多数活躍するでしょう。

活動を始めたきっかけ

質問者 告発するきっかけは?

クォン 韓国に来て暮らしてみると、
北朝鮮の実状に改めて胸が痛みました。
それを伝えていくのに、文章を書いたりテレビで話したりするよりも、
視覚的に見えるように絵で描きたいと思いました。
これを描いたからと言って自分が出しゃばるよりも、
誰が使っても北朝鮮の実状を伝えやすいようにと考えました。
この絵は私が独占すべき個人の作品ではありません。
北朝鮮の現実なので、これを誰にでも伝えることが大事だと思います。

北朝鮮にいる拉致被害者についてのうわさ

質問者 北朝鮮にいた当時「外国から人をさらってくる」という話は聞きましたか。

クォン 軍にいた時も、軍から出て社会生活している時にも、
機会あるたびに出る話は、
金正日やその家系をサポートする人たちの話では
「金正日はたいへんな女好きだ」ということでした。
平壌に行ってもそういう話を交わしてきて、
コネを通じて、私も友人が金日成の弟・金英柱の息子と友人で、
そのような伝手を通じて
「金正日は北朝鮮の女は思い通りにできる、
だから外国の女を拉致して愛用している」という噂が回りました。

そういう時に申相玉夫婦(金正日の指示で拉致された、韓国人映画監督と女優の夫婦)が現れたり、
日本人女性がやって来たのが(テレビの)画面に映ったりして、
人々が自分の知っていることを話したので噂が回りました。
(金正日の)別荘に行くとタイの女、インドの女、日本の女がいる、
そうした女たちに最大限に高級な生活を与えて愛用しているという噂が回りました。

もらん

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質問者 それはいつ頃の話ですか。

クォン 80年代末から90年代初頭にかけて、
人々の認識か盛んに開けてきたころですね。

質問者 工作員教育のために教官となる外国人をさらうという話は聞きましたか。

クォン 金策工業大学にもアメリカ人、アフリカ国籍を持っている人たちがいますが、
北朝鮮国籍を持っています。
その人たちに最大限良い待遇を与えて教授として活用する、
それから朝鮮人民軍、人民武力部傘下に「敵工局」があります。
そこの合法訓練所では、韓国人や日本人がいかなるルートであれ、入っています。
金正日の料理士も藤本健二という日本人がやりましたよね。

そういうのを北朝鮮の人たちも知って、
ああ、あの人は自由な人間で、国民は自由ではないのか、
そういう気持ちから話が行き交いました。
90年代末に聞きました。

クォン 軍の敵工局に合法訓練所というのがあって、
韓国などに出て活動する人のために
現地の文化や言葉を教育するところがあります。
そこにも日本人がいるという噂を聞きました。
自分で直接見たのではありませんが。

質問者 それを聞いたのはいつですか。

クォン 2000年代の初頭、監獄に行く前のことです。

国際社会に望むこと

質問者 今後北朝鮮がどうなってほしいか、
それに向けて国際社会はどうはたらきかけていくべきか。

クォン これまで国際社会は多くの努力をしていますが、
北朝鮮が変わらないのは、
北朝鮮の本質的な要求、本質的なところを突けていないからだと思います。
もっと積極的に北朝鮮を深く知ることが大事でしょうし、
北朝鮮の人々自身が自由社会、国際社会の現状を知ることが一番大事でしょうね。

ですから、独裁政権側は何としても知られないように遮断しようとしている。
国際社会は知らせる役割を優先すべきでしょう。
第二には物質的支援、
第三には体制の変化に向けた研究などでしょうか。

国際社会が騒ぐことに対して北朝鮮がどう反抗しているかというと、
町にポスターもはためいているのですが、「犬が吠えても汽車は走る」と。
米国や日本といった列強や国際世論を犬扱いしているのです。
いくら犬が吠えたところで、我らが汽車は躊躇することなく走り続けると。
ですからほんとうに北朝鮮の虚を突いてこそ、
北朝鮮はそのような反抗はできなくなると思います。

質問者 その北朝鮮の「虚」とは具体的には何でしょうか。

クォン 世界に二つとない世襲体制だということ、
住民に主権がないということを北朝鮮国民が知るべきだし、
(他の社会では享受している)人権を我々は持っていない。
他の社会の人たちはこのように暮らしているのか。
これを知ることで人々に反感が湧いてきます。
なんで我々はこんなに苦しい暮らしをしているのか。
「ああ、騙されて生きてきたのか」というような認識が一番大切なのです。

体制に対する不信が醸成されてこそ、
国民は違う行動を取れるのです。
それでこそ体制は変わっていくのであり、
国際的な圧力だけではあの体制の防御力は強いので、穿ちいるのは難しい。
内部矛盾が大事だと思います。

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