天安門事件のキッカケは、前総書記の追悼集会

1989年4月、中国共産党前総書記胡耀邦(こようほう)が死去。民主化を求める学生運動に理解を示した彼の死を契機に、北京市内で学生たちによる追悼集会が開かれ、それが天安門広場での10万人規模の座り込みに発展しました。天安門事件のリーダーであり、指名手配者の筆頭にあった王丹(おうたん)氏。当時20歳だった王丹氏をはじめとする学生は、政府との対話を求めました。

中国共産党が追悼集会を暴動扱いしたことにより学生と対立

しかし、4月26日、政府は共産党機関紙「人民日報」一面に「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説を掲載。学生たちの平和的デモを、国家への動乱だと報じたのです。「ここは天安門事件を理解するポイントになるかと思います。『人民日報』が社説を発表する前は、学生たちは政府と対立していませんでした。学生たちは民主化の声を上げただけだったのです。しかしその社説は『学生たちの運動は動乱であり、暴動である』と決めつけたので、対立関係が生まれてしまったのです」と取材班のインタビューに答えました。

学生・市民に対して人民解放軍が無差別発砲

そして6月3日夜半、中国共産党は鎮圧に人民解放軍を投入し、自由と民主化を求めて天安門広場に集まっていた学生・市民に対して、無差別発砲するという虐殺が行われました。当局発表の死者数は319名とのことでしたが、実際はそれをはるかに上回るとみられ、2,000~1万名まで、さまざまな推定死者数が報告されています。王丹氏は、まさか政府が学生に向けて発砲するとは予想もしておらず、あまりのショックで頭のなかが真っ白になり、2~3日の間、思考停止に陥ったと話します。

事件後に政府は徹底的な隠ぺいを実施

この天安門事件は多くの人々に中国共産党に対する失望を与えました。中国で発禁になった問題作『中国教父習近平(中国のゴッドファーザー習近平)』の著者で、現在はアメリカに亡命中の作家余傑(よけつ)氏もその一人です。1989年の事件当時、16歳の学生だった彼は、四川の田舎でBBCなどのラジオを隠れて聴き、天安門事件を知って、震撼したと言います。共産党が嘘をついていると知って、彼は批判をはじめたのです。武力鎮圧後、王丹氏ら21名のリーダーと参加者は反逆者として逮捕されます。その後徹底した報道管制のもと、天安門事件そのものが隠蔽され、25年経った今も真相は国民に一切知らされないままになっています。